当時、愛媛ミカンはアメリカやカナダに生もしくは缶詰により輸出されていた。品質については現地のオレンジ等と比較しても優っていたのであるが、現地のスーパーマーケットを調べるとあまり売れておらず、オレンジ等の柑橘系果実はジュースにより普及していることを桐野は目の当たりにしたのであった。
桐野はこのアメリカ視察により、ミカンをジュース化することにより、品質は普通の大きさのミカンと変わらないのに小玉ゆえに値の出ない屑ミカンと呼ばれるミカンの処理や裏年による生産量の変動や価格変動に対応し、周年供給体制をとることが可能であることに気づいたのであった。早速、愛媛県青果農業協同組合連合会においても果実加工事業として翌1952年(昭和27年)にジュース工場を建設し、オレンジジュースの製造が開始された。
「ポンジュース」のネーミングの起源は、「日本」の「ポン」である。これはオレンジジュースの発売に当たって東京出張所の渡邊衛所長が映画の惹句師(じゃっくし・現在のコピーライターのような仕事)を行っていた大学出の連中に依頼した結果である。
この案を理事会に諮ったが、愛媛では感じがよろしくない(ポンは愛媛の方言で大便の意味)との意見が出て決まらないため、当時の愛媛県知事、久松定武(殿様より知事になった)に決めていただくこととなった。久松知事はフランスに住んでいたこともあり、「ポン」はフランス語の挨拶「ボンジュール」(こんにちわ)や「良い」という意味の「ボン」に語呂が似ているので良いのではないかと「ポン」を勧めた。当時の理事は60歳以上の者がほとんどで殿様に対し尊敬の念もあり、「殿様の言うことだから間違いは無い」ということで一転「ポンジュース」に決定した。そのため、名付け親は久松知事とも言われている。(なお、当時「ポン」については商標出願について福島県会津若松市の会津製氷冷蔵が先願しており、交渉の結果、1953年(昭和28年)に商標権を共有としている。)
ポンジュースというと「愛媛のまじめなジュースです」のコピーが有名であるが、TVCFにおいても「まじめなキャバレー」編、「まじめな朝」編、「まじめな合唱」編、「まじめな出荷」編と「まじめ」にこだわり、ついには歌まで作ってしまった。