そふとどりんく・とーく 第8回

 冒険する舌

 二〇〇〇年の暮れで缶ジュースを集
めはじめて満十年になった。何でもそ
うだが、最初は新しい発見ばかりで驚
きの日々だった。某路上観察家を称し
て「目に見える物全てが観察対象の人」
と誰かが何かの本に書いていたが、当
時の私にとっては、まさに目に見える
ジュース、自販機、広告など清涼飲料
水に関するものは全て興味の対象であ
った。
 味覚に関しても、中身入りのジュー
スがある以上は、飲まないと作った人
に失礼なので、たくさん飲んでいるう
ちに、「こういうジュースはこんな味
だ」ということがわかってきてしまっ
た。最近は缶ジュース趣味にも外見の
デザインにこだわる人と中身の味にこ
だわる人がいることがわかり、お互い
融通しているので、昔みたいに何でも
かんでも飲まざるを得ない事態は少な
くなった。よって、ある意味での「暴
飲」は少なくなったと思う。
 味見系の人たちは新製品が出るたび
に飲んでいる。うまい、まずいを自ら
の舌で判断しているわけだ。その行為
は一般人からすれば冒険に見えるだろ
う。だいたい人間というものは、一度
食べて口に合ったものしか続けて食べ
ないわけだから。逆に「一度食べたも
のは二度と口にしない」ということは
「冒険」を通り越して「無謀」と言わ
れるに違いない。でも、実際それを飲
み物でやっている人は存在する。(私
もその一人であったりするが)
 ところで、毎年新製品はたくさん出
ているのだが、最近、新機軸の飲料が
出ていない気がする。サプリメント
(栄養補助食品)とかニュートラシュー
ティカル(機能性食品)などというジャ
ンルの飲料をよく見かけるが、日本に
おいてこれらは一九八〇年代初めに出
たスポーツドリンク(つまりは大塚の
ポカリスエット)に端を発するもので、
全く新しいコンセプトという訳ではな
い。また、果実フレーバーについても、
ロッテのガムが時々新しいフレーバー
を発表して、それと同じ味の果汁飲料
を出しているのだが、定着したのは曲
がりなりにもスウィーティーくらいだ
ろうか。
 かつての日本人は好奇心のカタマリ
であったと思う。日本人向けにアレン
ジされてはいるが、日本では世界中の
あらゆる食が食べられる。コーラだっ
てお茶のように昔から日本で飲まれて
いたものではない。それは純粋に「お
いしい物」を求めた結果なのだろう。
 どうして好奇心旺盛な日本人が食に
関して保守的になってしまったのか。
最近の食品添加物、環境ホルモン、異
物混入など考えられる理由はたくさん
あるが、「バブル」という異常な社会
を経験した反動が一番の理由ではない
かと考える。
 今考えてもバブルの頃は変だった。
当時、「これはどう考えてもおかしい」
と思ったものにボジョレー・ヌーボー
というワインの初飲みパーティがあっ
た。解禁日の深夜、成田からわざわざ
ビンテージクラシックカーで東京都内
の高級ホテルまでワインを運び、みん
なで飲むというものだった。これをテ
レビで見て、「非常に実の無い催し」
と感じた。下戸なもので確認してはい
ないのだが、ボジョレー・ヌーボーは
新酒というだけで、とりたててうまい
というものではないらしい。つまり、
悪しき日本の伝統でもあるのだが、見
てくればかりに気を取られて、実際の
中身が伴っていないわけだ。こんな事
が長続きするわけがない。
 ところで、現在ユニクロというカジ
ュアルウエアの店が大繁盛しているが、
最初はこんなに流行っている店ではな
かった。初めてのテレビコマーシャル
も、近所のおばちゃんが着るような服
しか売っていない店のようなイメージ
だった。しかし、一度行ってみたら、
「安くてそこそこおしゃれに着られる
服がある」ということを知った。つま
り、最初は物珍しさでも、実があれば
客はついてくるのだ。コンビニも然り。
つまり、食について日本人が保守的に
なったのではなく、冒険を誘う食が少
なくなったというのが大きな理由だろ
う。
 「飽食の時代」と言われてどれくら
い経っただろうか。それは物珍しさの
みを追い、実利を示さない生産者側に
も原因があると思う。どんなに不況と
は言え、消費者に対し実利があれば必
ず成果があるはずだ。また、人間の五
感の中でもパソコンで表現できるのは
視覚と聴覚しかない。味覚は今のとこ
ろ、パソコンやインターネットで感じ
ることはできない。つまり、自分の舌
に頼るしかない。
 味わったことのない食はまだいくら
でもあるはず。理想の味覚を求め、自
分の舌を冒険に出そうではないか。

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